闇夜の過ごしかた

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第50回庚申講「∞界-openside-」報告

page 2/2 闇の後半

闇散歩

食事が一段落したところで、深夜の散歩に出かける。もちろんアイマスクをしたまま、電車ごっこのようにロープを持って一列に並び、前と後ろの端に目を開けたスタッフがアテンドする。部屋を出て国道を横断し、隅田川沿いを歩いて公園までのコースだが、参加者にはコースも目的地も伝えない。

歩道の点字ブロックの感触や、深夜の街の音を楽しんでもらうのが目的だったが、途中で参加者がほぼ同時にあることに気がついた。川と並行に走る道から川に向かって伸びる道に出ると、空気がひんやりするというのだ。なるほど言われてみれば右左折するたびにその違いをはっきりと感じることができ、思わぬ発見に出会えた。

公園に到着し、アイマスクをしたまま滑り台やブランコで遊ぶ。はたからみると通報されかねない不可解さがあったはずだが、幸い、深夜の公園に他の客はいなかった。

闇落語

部屋に帰り、真の暗闇のなかでアイマスクをとって、いよいよメインコンテンツである闇落語を聴く。二つ目の噺家、三笑亭夢吉さんをお招きし、時間をずらして二本演っていただいた。

最初の噺「あたま山」は、頭の上に桜の木が生える男の奇想天外なストーリーで、夢吉さんは暗闇だからこそ想像力を駆使する内容がいいだろうとこの噺を選んだそうだ。その読みどおり、参加者それぞれの頭の中に、大きな桜の木がイメージされ、その意味で暗闇の空間に、満開の桜並木が林立したわけだ。

次の「天狗裁き」は、夢の話だ。「ずうっと夢と現実がループするという、考えようによっちゃあ気味の悪いサゲ」と夢吉さんがのちに語ってくれたように、暗闇という不安定な場にふさわしく、薄気味悪い、後味の悪さを感じることができた。

これは正直、やれてよかった。噺家さんの姿は視えないが、CDで落語を聴くのとは全然違う。なにしろ2メートル先に相手は確かにいるのだし、上下(かみしも)の使い分けも気配で感じとれる気がするのだ。

本人も「はじめてやったどころか、やったというのをきいたこともない」という、完全な闇の中での落語だが、後できくと演じるほうとしては大変難しかったそうだ。よく考えるとそりゃそうで、客の反応がまったく視えない。参加者が目の前にあるだろう高座の気配に神経を研ぎ澄ましているとき、高座からも客の気配をさぐっていたわけだ。

闇焼き

夜更け、といっても時計も視えないので正確にはわからないがとにかく落語を楽しんだあと、焼き物当てというクイズをやった。隣の部屋でホットプレートを使っていろんなものを焼き、ただよう匂いでなにを焼いているか当てた人が、その品を食べられる、というルールだ。シシャモ、ソーセージ、チーズなどをつまみにまったりとした時間を過ごす。

すでにアイマスクははずし、目を開けても閉じてもおなじ真っ暗。そんな空間で、参加者はなぜか、普段はしないような深い話をするようになっていた。ある場所では、恋人との関係についての悩みと、まわりからの真摯なアドバイス。ぼくも気がつけば、参加者の一人である会社の先輩に仕事の仕方について真剣に相談していた。

ほかの企画は闇の中へ

じつは今回この他に、触覚を駆使して形状から物をあてる「さわってなんでしょう」ゲームや、テレビやラジオの効果音(ザルに小豆を入れて波の音、とか)を集めた「ザ・音職人」というCDを聴くイベントを用意していたが、結局やらなかった。相手の視えない空間で、普段と違った話に興じる場ができていて、「まあいいや」と思ったのだ。たぶん、いまのこの場は、かけがえのないものなんだ。そんな気がする。
あと、もちろん視たわけではないが、寝落ちもあったはずだ。ときどき呼んでみても返事がない人がいたが、たぶんその人は意識すらも完全な闇の中にいたのだろう。

まとめ

今回の長くて深い暗闇体験の中で、以下のことがわかった。

予想した以上に、いろんなことがわかり、また体験できてよかったと思う。最後に、ダンボールの目張りを解いて窓を開けたときに差し込んだ朝日の光が、なんともいえずまぶしくてキレイだったことを、付け加えておきたい。

date:2009.03.16


Text by 東京庚申堂